変化
駅にたどり着き、電車に乗りこむ。シートに座って鞄を漁っていると、携帯を忘れていることに気づいた。
電車が動き出してからしばらくはうんざりした気分だったが、次の停車駅に着くころにはどうでもよくなっていた。どうせこれから行く場所には迷わず行けるし、連絡してくるような人もいないだろうし、いたとしても大した用ではないはずだ。何より、今さらそれを取りに戻る気にはならなかった。
文明の利器から解放されたところで、私は自分が存在しなくなったような気分になった。そもそも私の存在感などたかが知れているのだが。家族とはほとんど連絡を取らない。よっぽどのことがない限り連絡を取る友人もいないし、自分から連絡することもない。
なぜそんな風かと言えば、それが最もやりやすい方法だからだ。最良かは分からないが、とりあえずより良い人間関係の築き方なのだった。私にとっては。
電車を降り、私はしばらく前に卒業した大学へ向かう。今日、仕事は休みだが、おそらく大学は学生で溢れかえっているだろう。私は講義時間を狙って大学に到着する――その時間ならキャンパス内はそれほどごった返してはいないはずだから。
案の定、キャンパス内は活気があったものの人は少なかった。大学に残っている学友は少ないので知人に会う可能性も低いだろう。
部外者になった気分で(実際その通りなのだが)私は大学図書館に行き、自分が卒業生であることを伝えて中に入る。学生の頃から図書館は好きだった。本が好きなのはもちろん、図書館の雰囲気そのものに魅力があった。
卒業してからここに来るのは初めてだった。学生時代いつも座っていたあたりに落ち着いたが、自分は部外者なのだという感覚はなくならなかった。
社会に出てから、常識(メインストリームに合わせる能力)を求められ、腑に落ちない出来事を見聞きして疲弊していた私は、多少の慰めと現実逃避のためにここに舞い戻ってきたのだった。
在学中から思っていた通り、大学に残らなかったのは失敗だった。
職場はとてもいいところだ。私のような存在が望みうる限り。仕事が過酷すぎることもなく我慢ならないほど嫌な人間もいない。
ただわたしには普通さが足りない。
自分がそこまで異質な人間だとは思わない。ただ少しだけ閉鎖的で、正直すぎるかもしれない。ずっと前からそれは分かっていた。
働きはじめるよりも早く、長続きしないだろうということは分かっていた。あとは私が音を上げるのと、上から戦力外通告を受けるのと、どちらが先になるか、それだけの問題だ。
四、五時間図書館で過ごした後、私はノートとペンを買いに売店に行った。どういうわけか、どちらも鞄の中に入っていなかった。
私はキャンパス内の日陰、ベンチに座ってこれを書いている。今は休み時間、学生たちが楽しそうに馬鹿げた話をしている。十分もすれは、彼らのほとんどは次の講義に向かうかサークルにでも行くのだろう。私はあんなに愚かではなかったはずだ、と考える。まず、一緒に馬鹿な真似をする相手もいなかったので当然だが。
私は人と関わるのが好きではない。学問が好きだったので大学は楽しかったし、どこに行くにも何をするにも一人で、それで満足していた。
わたし自身でいる時は、それで何の支障もない。しかし”人間”であることを求められる場合には、それはとても厄介なことだ。
最近まで、それに気づいてはいなかったけれど。
さてこれからどうしよう、と私は考える。
五月らしくくすっきり晴れた空、心地よい風、新緑、私のいちばん嫌いな季節。春から夏にかけて、自然とは裏腹に私の気分は重くなる。
キャンパスを歩く学生を眺める。
普段、私は何も見ないし何も聞かない。ほとんどの感覚を閉ざしておく。そうしないと疲れてしまう。
目の前を通り過ぎてゆく彼らは存在するのだろうか。
どこにも行きたくなかった。特に人と関わらなければならない場所には。人と関わるのは仕事だけで変化たくさんだ。
しかし家に帰る気にもならなかった。外に出てしまったのだから。何かをしないことには戻れないように思った。
特に今日のように、誰でもなくなっている時は。
私は顔を上げる。日の光を遮る木々、カエデ、イチョウ、ザクロ。風が吹き、何かが過ぎ去る。
これは時間の無駄だ。私は立ち上がる。
つまり、全部終わってしまったのだということを、私は理解した。そのことは知っていたが、私は分かろうとしていなかった。
おそらく、どこかへ行くとするなら、私は行ったことのない場所に行くべきだろう。
何もかもがますますどうでもよくなった私はそのままふらりとどこかへ向かうことにした。携帯はなかったが、未開の地にいるわけでもないし、金も持っていたし、これ以上ひどいことにはならないだろう。
大学を出ようとキャンパスを歩いていて、私はあることに気づいた。チャイムの音が昔ほどよく聴こえないのだ。もちろん耳が悪くなったわけではなく、単純に私に働きかけなくなったのだ。
ここは私とは関係のない場所になったのだった。
私は立ち止まり、もう少し大学の様子を観察した。
人々、声、彼らはここに属しているのだろう、しかしかつての私は、彼らのようにここに属していたのだろうか。
私は彼らとは無関係だったように思う。私のような存在はどこにいてもそんなものだろう。どこにいても、いるようでいないというのが私の立ち位置だった。
社会ではそういうわけにもいかないのだが。
私はまたここに戻ってくるだろうか。おそらくは。
また”誰でもない”状態で外を歩くことがあるかもしれない。私は孤独であることが好きだ。これからはそんな機会も少なくなるかもしれない。
別の場所に行かないかぎり。
私は大学を後にする。